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長野県北安曇郡

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小谷村について

最終更新日:2017年3月27日

村章

村章

村章は小谷村のかしら文字の「オ」を図案化し、雄大な山と清流の川を形どり、円は村民の和・団結・協調を意味し、未来に向かって限りなく発展する姿を象徴する。

昭和43年9月3日  制定

小谷村村民憲章(昭和53年10月28日制定)

(前文)

中部山岳、妙高戸隠連山、二つの国立公園に抱かれ、中央を流れる姫川とスキー場、温泉、古街道や美しい自然は人々の心を慰めてくれます。
祖先から受け継いできた伝統、民族文化と素朴な人情味、地道な仕事への熱意は郷土の誇りであります。
私たち小谷村民は地勢の激しさを克服して新しい時代にふさわしい視野に立ち、住みよい豊かな村づくりに願いをこめ、ここに村民憲章を制定します。

(本文)

  1. 清き流れの姫川を守り緑ゆたかな山々を愛しましょう。
  2. ふる里の民族文化を継承しより高い伝統を創りましょう。
  3. あたたかい家庭をつくりみんなで助け合って健全で明るい村を築きましょう。
  4. 勤労に励み知恵と力を出し合って豊かな産業を育てましょう。
  5. 広く視野を養い厳しい自然に打克って輝く未来を拓きましょう。

小谷村村花

村花「大山ざくら」
 村内各地に古くから自生し、長い冬を耐え春を迎える村人に親しまれ愛されてきたこの高木の桜は、耐雪性に富み、将来に向け植樹も容易である。
 花は大きく色は赤みが強く鮮やかで、残雪の早春に気高く爛漫と咲く様は限りない発展を願う村のシンボルにふさわしい。

村旗

村旗の白は小谷村の雪と清潔な村民性をあらわし、地色のみどりは小谷村の林野の自然の色をしめし、未来に発展する希望の色を象徴する。

位置・地勢

位置図

小谷村は、長野県の最西北部に位置し、東は東山から天狗原に連なる稜線をもって長野市と新潟県妙高市に接し、西は白馬連峰を境として富山県に接し、南は白馬村、北は糸魚川市に接しています。

村の面積は267.91平方キロメートルで、東西14キロメートル、南北20.5キロメートルに及んでいます。村の中央を日本海に北流する姫川が流れ、これを底辺に標高1,600~2,800メートルの高山が連なり、これに囲まれた急峻な峡谷型の地勢となっています。この姫川に沿って縦断する糸魚川静岡地質構造線により、もろくて弱い地質地帯が広範囲に及んでいます。

東側は地味が豊かですが地勢がぜい弱で、西側は比較的緩斜面が続くため高原的景観を有し、良質なスキーゲレンデがつくられています。

村の面積の88パーセントを森林が占め、耕地はわずかに2.1パーセントと少なく、姫川とその支流の中谷川、土谷川に沿って53の集落が散在しています。この姫川沿いにJR大糸線と国道148号が村の中央を走り、重要な交通機関となっています。

沿革

 小谷村小史

小谷村に縄文時代から人々が住みついていたことは、村内各所から発掘された遺跡や石器などによってわかりますが、”おたり”という地名が初めて文書に出てくるのは、建久元年(1190年)12月に出された六条院の書状で、それには「於地理」と万葉がなで書かれています。”おたり”の語源は、当時、麻の産地であったため「麻垂」から生じたものではないかといわれていますがまだはっきりとはわかっていません。なお、「小谷」と書かれるようになったのは鎌倉時代の中期からのことです。

また同じ文書から、平安時代末ころの小谷は”千国庄”と呼ばれ、白河上皇の内親王六条院領であったことがわかっています。戦国時代、この地は仁科郷矢原庄に属し、豪族仁科氏の支族、飯森十郎盛春が平倉城をかまえて守領したものであり、武田信玄勢攻略のときの小谷五人衆の行動や落城、盛春討死の話が今に伝えられています。

徳川時代の小谷は松本藩に属し、小谷五人衆らの庄屋によって治められましたが、明治に入ると松本県、筑摩県を経て長野県に属しました。
明治22年、千国村と中小谷村が合併、南小谷村となり、以来この地方は中土村、北小谷村を合わせ、小谷3カ村と通称されました。そして、昭和33年4月1日、南小谷村、中土村、北小谷村が合併、小谷村が発足し、新しい歴史がスタートしました。

合併の説明図

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