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長野県北安曇郡

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~文化財めぐり~小谷の風土と歴史

最終更新日:2017年3月27日

小谷の風土と歴史

おたり・小谷・於他里 「おたり」が記録に現れるのは今から八百年も前の平安時代末期で、「於他里」と記され登場します。今の小谷の範囲を指しているのか定かではありませんが、歴史の重みを感じさせてくれる地名です。

佐野坂を源流とする姫川は白馬盆地を過ぎたあたりから深い谷を形造り、西は北アルプス、東は小谷山地から川の水を集め、日本海へと向かいます。姫川の中流域とその支流の谷沿いに発達してきた村、それが「小谷」です。

小谷を過ぎると日本海は目前、北小谷戸土(とど)地区からは長野県で唯一日本海を望むことができます。冬の降雪量は日本でも最も多い地域に属し、北アルプスの裾野にはスケールの大きいスキー場が広がっています。

はるかな原始・古代

小谷最古の人間の痕跡、それは1万年くらい前の旧石器時代人が残した石器です。現存するのは標高1000メートルほどの北小谷地蔵峠から出た石器数点で、中でも硬玉の深緑色をした細石器(小谷郷土館展示)は技巧的にも優れた美しいものです。

縄文時代の遺跡は多く、栂池の林頭遺跡からは、縄文早期の遺物とともに住居跡が確認されています。黒川城遺跡からは縄文後期の土器や石器が数多く出土しており、この中のヒスイ製の小珠片など20点(小谷郷土館展示)、石棒が村文化財に指定されています。

弥生や古墳時代の遺跡は少なく、わずかに土器片が出土しているだけで、当時の様子はわかりません。

北小谷深原から横川を経て、糸魚川根知方面へ抜ける「越後道」は跡杉山を越える起伏の激しい道です。この峠を昔は「三坂峠」と呼んでいました。「みさか」とは古代政治の中心地、大和から地方へ伸びる“官道の峠”を示す地名といわれています。このことは、小谷が古代から重要な道筋に位置してしたことを改めて思い起こさせてくれます。

鎌倉・室町

平安末から鎌倉時代、小谷は六条院領の荘園“千国庄”の一部でした。千国庄は今の小谷白馬を指しているといわれ、政所(現地支配の中心)が「於他里」と「飯守」の2ヵ所に置かれていたことがわかっています。この時代の文化財としては来馬常法寺の阿弥陀三尊像(県宝)と同じく来馬諏訪社の古鏡(村有形文化財)があります。銅造の阿弥陀三尊は、善光寺式の優美な仏像、古鏡は青銅製の「菊散檜垣双雀鏡」で両方とも当時の支配者層を考える上での重要な文化財です。

鎌倉末期になると小谷地方は千国と小谷の二郷にわかれ、室町時代には、両郷とも諏訪大社下社の拝殿を作るための頭役を命ぜられています。

字宮諏訪神社には室町時代の「梅散双雀文鏡」(村有形文化財)が伝わられており、また黒川居館跡(村史跡)からは、当時の青磁椀(郷土館展示)が完全な形で出土しています。

戦国の攻防

小谷の戦国時代、甲斐の武田信玄は安曇平を手中に治め、交通の要衝小谷を攻略、ついに弘治3年(1558年)平倉城(村史跡)を落とします。村内には落城のときの悲話も多く残され、合戦の激しかったことをうかがわせています。

その後仁科氏を継いだ仁科五郎盛信(信玄の子)は小谷の土豪を通じて、小谷を支配していきます。

武田氏が滅びると、織田信長に味方していた木曽氏が侵略、信長が本能寺の変に倒れると今度は越後上杉勢が小谷仁科地方に攻め入り、天正10年(1582年)松本平を支配し、戦乱に明け暮れた時代はようやく幕を閉じます。

当時活躍した小谷の土豪たちは江戸時代にそのまま庄屋等になり、居住したため、それらの家には戦国時代の貴重な古文書が多く伝えられており、当時の小谷の様子をうかがい知ることができます。 

江戸時代の小谷 

近世、小谷は来馬、石坂、中谷、土谷、大網、深原、千国の7ヶ村に分かれ松本藩の大町組に属しました。前4ヶ村の集落の中には隣家でありながら他村に属する家があるなど、地理的なまとまりのない複雑な村構成でした。

幕末千国の宮島元貞によって描かれた小谷全村図(村文化財)はぞれぞれの集落がどの村に属していたかが書き込まれた貴重な資料です。

元禄12年(1699年)に信越国境の戸土・横川の帰属をめぐって小谷と根地山口で争われた国境争論は幕府に持ち込まれた程大きな訴訟です。

「論記扣」(村有形文化財)にはその時の様子が細やかに記されています。最終的に小谷の勝訴で終わりましたが、その理由として信越国境白池のほとりの神木に7年に一度「薙鎌打神事」が行われていること、江戸初期の松本城主石川三長が仁科肝煎(後の庄屋)に「横川で高田城主に橋木を切らせるように」という文書(村有形文化財)を出していることなどが上げられています。

これにより、国境線が墨引きされた絵図(理由裏書、村有形文化財)が幕府より下げ渡されています。

現在「薙鎌打神事」は県境戸土地区の神社で7年に一度行われ、長野県無形民俗文化財に指定されいます。 

潮の香を乗せて・・・塩の道・千国街道

江戸時代日本海と信州内陸の交易が盛んになり、糸魚川からは塩や海産物、信州からはタバコや麻が運ばれ、小谷の人々は「夏は牛方、冬はボッカ」として街道の物資運搬にたずさわってきました。

この街道は千国の「口留番所」を通るため「千国街道」とも呼ばれ、姫川の急流を迂回し山道を通りました。松本藩は安永7年(1778年)まで糸魚川からの北塩に限って移入を許可し、他からの塩を禁止していました。これがこの街道が「塩の道」と呼ばれるゆえんです。

街道沿いには塩倉、池原神社の「廻船絵馬」、親坂弘法の清水・水飲場、沓掛旧千國家旧宅(牛方宿)、前山百体観音など、往時を偲ぶ文化財も多く、小谷はまさに「塩の道」の名にふさわしい村です。 

祈りと祭りの形 

小谷には大きな神社が九社、寺院が四寺あり、各々有形・無形の文化財を伝えています。また、集落ごとに社やお堂があり、路傍の石仏も数多く、小谷の人々の信仰深さを物語っています。

神事・芸能

中谷大宮諏訪神社の「奴踊」(県無形民俗文化財)は奴が世情を巧みに読んだ唄を奉納する踊りで、江戸時代からの「奴唄綴り」(村民俗文化財)が残され、当時の庶民の心情を知るうえで貴重な資料となっています。

狂拍子は中谷(県無形民俗文化財)、大網、深原、池原、下里瀬で伝承されている十歳前後の男児二人による踊りで、バチを持って踊ります。

大網の「お江戸漫才」は太夫と才蔵が江戸城の様子等をおもしろおかしく掛け合う伝統芸です。

大網と土谷に三番叟が、また、大網、深原、池原、中谷、土谷、宮本、千国に獅子舞が伝えられ、千国では獅子に登場する男根型のササラ棒を持った道化のササラスリが沿道の人々を賑わせ、“ササラ祭り”と呼ばれるにいたっています。

字宮諏訪神社(深原・李平)の祭礼では花をつけた12本もの「花灯篭」が集落から神社まで練って歩きます。また、中谷や大網では昔ながらの御輿が神社を練って、古式ゆかしい祭りが行われています。

小谷、自然のふところ 

小谷は中部山岳と上信越の2つの国立公園区域を持ち合わせる日本でも有数の自然の宝庫です。日本最古の恐竜足跡化石(県天然記念物)も発見されており、村内には県および村指定の天然記念物が数多くありますが、小谷の雄大な自然そのものが天然記念物といってもよいでしょう。 

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